中国伝統医学とも呼ばれ現在では「中医学」ともいい、中国が発祥とされています。東洋医学のもとは呪いや魔除け(シャーマニズム)などが起源のようですが、生薬を用いての治療が始まる。
自然現象を気象学・天文学的に説いてきた易経の中心となる陰陽論や天地人思想から生薬の治療も陰陽論、五行論といった漢方医学が発展していった。
中国の歴史年表
【春秋時代】BC770~BC403年 (思想家・儒学の孔子がいた時代)
【戦国時代】BC403~BC221年 (儒学者の孟子がいた時代)
【秦代】BC221~202年
【前漢】BC202~AD8年 (司馬遷の『史記』がこの頃できた)
【新代】AD8~23年
【後漢】AD23~220年
【三国時代】AD220~265年 (『三国志』の時代)
【晋代】AD265~420年
西晋AD265~316年
東晋AD317~420年
【五胡十六国時代】AD304~439年
【南北朝時代】AD439~589年
【隋】AD581~618年 (聖徳太子,小野妹子を隋に派遣)
【唐】AD618年~907年 (『西遊記』の時代)
【五代十国時代】AD907~960年
【宋】AD960~1279年
北宋AD960~1127年 (末期は『水滸伝』の時代)
南宋AD1127~1279年
遼 AD916年~1125年
西夏AD1038年~1227年
金 AD1115年~1234年
【元】AD1271年~1368年
【明】1368年~1644年
【清】1616年~1912年
【中華民国】1912年 ~1949年
【中華人民共和国】1949年~現在
戦国時代(紀元前770~403)の頃には伝説的な名医「扁鵲」が記録に残っている(伝説的なだけに作り話の可能性もあると言われている・・・)
・扁鵲
戦国時代後期の勃海(ぼつかい)郡の鄭(てい)(河南省)の人(孔子の時代より200年くらい後)。多くの古典に登場するが、一番詳しいのは司馬遷の「史記」扁鵲倉公伝で、それには扁鵲は姓を秦(しん)、名は越人という。
前漢時代(紀元前202~紀元8年)には「黄帝内経」が作製されたとされています。この黄帝内経は中国最古の医書とされ、東洋医学の基礎となる書物で「素問」と「霊枢」とに分けられます。素問は基礎理論、霊枢は別名で鍼経ともいい鍼灸やツボや治療法の臨床理論で構成されます。内容は古典のお話のページで紹介していきます。
著者は明確でなく、編集された年代も定かではないため諸説説かれていて、複数の医家により作られてたと考えられています。
内容は一部、散逸され唐の時代の王冰が再編集したものが現代あるもののようです。
神農
後漢時代には中国最古の本草学書の「神農本草経」が作られた。神農も伝説的な存在で三皇五帝の一人。諸人に医療と農耕の術を教えた神として崇められた。
神農は百種類もの草の効用や味、川や泉の水を味見して、避けるべきものと役に立つものとを人々に分かるようにしたが、一日のうちに七十もの毒に当たったと言い伝えられている。
神農本草経自体は神農が著したものではなく、伝説にあやかってその名がついた薬物書になる。365種類の植物、生物、鉱物が記載されており、漢方治療の基礎となる。
劉完素
金代末期頃の人。金元四大家と呼ばれた一人。
字は守真、号は河間。素問の研究に没頭し、特に運気学説を熱心に研究し、「至真要大論」の病機19条を分析し「六気は皆火に従いて化す」と結論し寒涼の薬を使用した寒涼派と呼ばれた。防風通聖散を作った。
著書は「宣命論」など
張従正
金代の人。金元四大家と呼ばれた一人。字は子和、号は戴人。
劉完素のあとを継ぎ、汗吐下の三法を主張した「攻邪派」の代表。劉完素に私淑し、寒涼の薬(攻邪の薬)を多く用いました。著書は「儒門事親」
李杲(李東垣)
金代の人(1180~1251年)金元四大家と呼ばれた一人。
字は明之、号は東垣。疫病が外風寒邪が原因ではなく内傷が疾病発生の主たる要因であるという内傷学説を提唱しました。脾胃の働きを重視し、著書に「脾胃論」がある。補中益気湯を作った。
朱丹渓
金・元時代の人。金元四大家と呼ばれた一人。
名は震亨、字は彦修、「滋陰降火」という原則をうちたて、金元医学の集大成者といわれた。
著書は「格致余論」「局方発揮」「丹渓心法」など
馬蒔
明代の人。字は仲華、号は玄台。歴代の「素問」「霊枢」注釈の第一人者。著書「黄帝内経素問注証発微」「黄帝内経霊枢注証発微」「難経正義」「脈訣正義」などある。
張景岳
明代の人。張介賓とも呼ばれます。字を会卿。
温補派を代表する人物で、当時は張仲景の再来と言われた。
著書「類経」「景岳全書」などある。