著者 紹介

大熊 裕哉

新潟県新潟市

おおくま鍼灸マッサージ治療院

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難経 三十一難~

三十一難

三十一の難に曰く、三焦はいずくに稟けいずくに生じ、いずくに始まりいずくに終わるや、その治は常にいずくのもとに在りや、暁るべきことを以てせんやいなや。

然り。三焦は水穀の道路、気の終始する所なり。

上焦は心下下膈にあり、胃の上口にあり、内るるを主りて出さず、その治は膻中にあり、玉堂の下一寸六分、直ちに両乳の間くぼかなるものこれ。

中焦は胃の中脘にあり、上らず下らず、水穀の腐熟を主る、その治は臍傍にあり。

下焦は膀胱の上口にあたる、清濁を分別するを主る、出すを主りて内れず、以て伝導するなり、その治は臍下一寸にあり。故に名づけて三焦という、その府は気街にあり。一本に衝という。

 

 

三十二難

三十二の難に曰く、五臓とともに等しくして心肺ひとり膈上にあるはなんぞや。然り。心は血、肺は気、血は栄となし、気は衛となす、相随いて上下す、これを栄衛という。経絡を通行し、外を栄周す、故に心肺をして膈上にあらしむるなり。

 

三十三難

三十三の難に曰く、肝は青く木に象り、肺は白く金に象る。肝は水を得て沈み、木は水を得て浮かぶ。肺は水を得て浮かび、金は水を得て沈む。その意はなんぞや。

然り。肝を純木となすは非なり、乙の角なり、庚の柔、大言すれば陰と陽、小言すればすれば夫と婦、その微陽をすてて、その微陰をの気を吸う、その意は金を楽しむ、また陰道を行くこと多し、故に肝をして水を得て沈めしむるなり。

肺を純金となす非なり、辛の商なり、丙の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、その微陰をすて、婚して火に就く、その意は火を楽しむ、また陽道を行くこと多し、故に肺をして水を得て浮かしむるなり。肺は熟してまた沈み、肝は熟して浮かぶとはなんぞや。故より、辛はまさに庚に帰すべく、乙はまさに甲に帰すべきを知るなり。

 

三十四難

三十四の難に曰く、五臓おのおの声、色、臭い、味あり、暁り知るべきことを以てせんやいなや。然り。十変にいう。

肝の色は青、その臭は臊、その味は酸、その声は呼、その液は泣。

心の色は赤、その臭は焦、その味は苦、その声は言、その液は汗。

脾の色は黄、その臭は香、その味は甘、その声は歌、その液は涎。

肺の色は白、その臭は腥、その味は辛、その声は哭、その液は涕。

腎の色は黒、その臭は腐、その味は鹹、その声は呻、その液は唾。

これ五臓の声、色、臭い、味なり。五臓に七神あり、おのおのいずれの所に蔵するや。然り。臓は人の神気の舎り蔵する所なり、故に肝は魂を蔵す、肺は魄を蔵す、心は神を蔵す、脾は意と智を蔵す、腎は精と志を蔵するなり。

 

三十五難

三十五の難に曰く、五臓のおのおの所あり、府みな相近くして心、肺ひとり大腸、小腸を去ること遠きは何のいいぞや。経に言う。心は栄、肺は衛、陽気を通行す、故に居は上にあり。大腸、小腸は陰気を伝え下にあり、故に居は下にあり、相去りて遠きゆえんなり。また諸府はみな陽なり、清浄の処、いま大腸、小腸、胃と膀胱はみな不浄を受く、その意はなんぞや。然り。諸府はこれあらざるをいうなり。経に言う、小腸は受盛の府なり、大腸は伝瀉行道の府なり、胆は清浄の府なり、膀胱は津液の府なり、一府、両名なきがごとし、故に非なるを知るなり。小腸は心の府、大腸は肺の府、胃は脾の府、胆は肝の府、膀胱は腎の府。小腸は赤腸といい、大腸は白腸といい、胆は青腸といい、胃は黄腸といい、膀胱は黒腸という。下焦の治するところなり。

 

三十六難

三十六の難に曰く、臓おのおの一あるのみ、腎ひとり両あるはなんぞや。

然り。腎の両あるはみな腎に非ざるなり、その左を腎となし、右を命門となす。命門はもろもろの精神の舎るところ、元気の繋がるところなり。故に男子は以て精を蔵し、女子は以て胞に繋ぐ、故に腎に一あるを知るなり。

 

三十七難

三十七の難に曰く、五蔵の気はいずくに発起し、いずくのもとに通ず、さとるべきこと以てせんやいなや。

然り、五蔵はまさに上、九竅に関わるべきなり。故に肺気は鼻に通ず、鼻和すれば則ち香臭を知る。肝気は目に通ず、目和すれば則ち白黒を知る。脾気は口に通ず、口和すれば則ち穀気を知る。心気は舌に通ず、舌和すれば則ち五味を知る。腎気は耳に通ず、耳和すれば則ち五音を知る。

五蔵和せざれば則ち九竅通ぜず、六腑和せざれば則ち留結して癰をなす。

邪、六腑にあれば則ち陽脈和せず、陽脈和せざれば則ち気これに留まる。気これに留まれば則ち陽脈盛ん。

邪が、五蔵にあれば則ち陰脈和せず、陰脈和せざれば則ち血、これに留まる。血これに留まれば則ち陰脈盛ん。

陰気はなはだ盛んなれば則ち陽気、相栄することを得ざるなり、故に格という。陽気はなはだ盛んなれば則ち陰気、相栄することを得ざるなり、故に関という。陰陽とも盛んなれば相栄することを得ざるなり、故に関格という。関格はその命を尽くすを得ずして死す。

経にいう。気ひとり五蔵をめぐり、六腑を栄せざるは何ぞや。

然り。気のめぐるところや、水の流れる如くやむ得ざるなり、故に陰脈は五蔵を栄し、陽脈は六腑を栄し、環の端なき如く、その紀を知ることなく、終わりてまた始まる。それ覆溢せざるは、人気、内は蔵府を温め、外は湊理を潤す。

 

三十八難

三十八の難に曰く、蔵ただ五あり、府にひとり六あるはなんぞや。

然り。府に六ある所以は三焦をいうなり。原気の別ありて諸気を主持

す。名ありて形なし。その経、手の少陽に属す。これ外腑なり。故に府は六ありというなり。

 

三十九難

三十九の難に曰く、経にいう、府に五あり、蔵に六あるはなんぞや。

然り。六府は正に五府あるなり。然れども五蔵または六府あるは、腎に両蔵あるをいうなり。その左を腎となし右を命門となす。命門は精神の舎る所をいうなり。男子は以て精を蔵し、女子は以て胞を繋ぐ、その気は腎を通ず、故に蔵に六ありというなり。

府に五あるとはなんぞや。然り。五蔵おのおの一府、三焦またこれ一府、しかして五蔵に属せず、故に府に五ありという。

 

四十難

四十の難に曰く、経にいう。肝は色を主る。心は臭を主る。脾は味を主る。肺は声を主る。腎は液を主る。鼻は肺の候、しかるに反って香臭を知る。耳は腎の候、しかるに反って声を聞く。その意はなんぞや。

然り。肺は西方の金なり、金は巳に生ず、巳は南方の火なり、火は心、心は臭を主る。故に鼻をして香臭を知らしむる。腎は北方の水なり、水は申に生ず、申は西方の金、金は肺、肺は声を主る。故に耳をして声を聞かしむ。

 

四十一難

四十一の難に曰く、肝にひとり両葉あるは何を以て応ずるや。

然り。肝は東方の木なり、木は春なり、万物始めて生じ、それなお幼小、意に親しむところ無し、太陰を去ることなお近く、太陽を離れること遠からず、なお両心あるが如し、故に両葉あり、また木葉に応ずるなり。

 

四十二難

四十二の難に曰く、人の腸胃の長短、水穀を受けることの多少は、各々幾ばくぞや。

然り。胃の大きさ一尺五寸、径は五寸、長さ二尺六寸、横屈して水穀三斗五升を受く、その中、常に穀二斗、水一斗五升を留む。小腸は大いさ二寸半、径八分と分の少半、長さ三丈二尺、穀二斗四升、水六升三合、合の大半を受く。廻腸は大いさ四寸、径一寸半、長さ二丈一尺、穀一斗、水七升半を受く。廣腸は大いさ、八寸、径二寸半、長さ二尺八寸、穀九升三合、八分合之一を受く。故に腸胃はおおよそ長さ五丈八尺四寸、合わせて水穀八斗七升六合八分之一を受く。これ腸胃の長短、水穀を受くるの数なり。

肝は重さ四斤四両、左三葉右四葉、およそ七葉、魂を蔵するを主る。心は重さ十二両、中に七孔三毛在り、精汁三合を盛り、神を蔵するを主る。脾は重さ二斤三両、扁広三寸、長さ五寸、散膏半斤あり、血をつつむを主る。五蔵を温め、意を蔵するを主る。肺は重さ三斤三両、六葉両耳、およそ八葉、魄を蔵するを主る。腎に両枚あり、重さ一斤一両、志を蔵するを主る。胆は肝の短葉の間にあり、重さ三両三銖、精汁三合を盛る。胃の重さは二斤二両、紆曲屈伸し、長さ二尺六寸、大いさ一尺五寸、径五寸、穀二斗、水一斗五升を盛る。小腸は重さ二斤十四升、長さ三丈二尺、広さ二寸半、径八分、分之少半、左に廻り、疊積すること十六曲、穀二斗四升、水六升三合、合之太半を盛る。大腸は重さ二斤十二両、長さ二丈一尺、広さ四寸、径一寸、臍に当たりて右に廻るころ十六曲、穀一斗、水七升半を盛る。膀胱は重さ九両二銖、縦の広さ九寸、溺を九升九合盛る。

口の広さ二寸半、唇より歯に至る長さ九分、歯以後、会厭に至る、深さ三寸半、大いさ五合をいる。舌は重さ十両、長さ七寸、広さ二寸半。咽門は重さ十両、広さ二寸半、胃に至る長さ一尺六寸、咽嚨は重さ十二両、広さ二寸、長さ一尺二寸、九節。肛門は重さ十二両、大いさ八寸、径二寸大半、長さ二尺八寸、穀九升三合八分、合之一を受く。

 

四十三難

四十三の難に曰く、人、食飲せざること七日にして死するとは何ぞや。

然り。人の胃中は常に穀二斗、水一斗五升を溜めてあり、故に平人、日に再び圊(便所)に至り、一行に二升半、日中五升、七日に五七三斗五升にして水穀尽く。故に平人、食飲せざれば七日にして死すとは、水穀・津液ともに尽きて死す。

 

四十四難

四十四の難に曰く、七衝門はいずこにありや。

然り。唇を飛門と為す。歯を戸門と為す。會厭(ええん、喉頭蓋の意)を吸門と為す。胃を賁門と為す。太倉下口(胃の出口)を幽門と為す。大腸小腸の会を闌門と為す。下極を魄門と為す。故に七衝門というなり。

 

四十五難

四十五の難に曰く、経に言う八会とは何ぞや。

然り。腑会は大倉(中脘)、臓会は季脇(章門)、筋会は陽陵泉、髄会は絶骨(懸鐘)、血会は膈兪、骨会は大杼、脈会は太淵、気会は三焦の外一筋、直ちに両乳の内なり(膻中)。熱病の内にあるは、その会の気穴を取るなり。

 

四十六難

四十六の難に曰く、老人は臥して寝れず、少壯は寝て目覚めざるとは何ぞや。

然り。経に言う。少壯は血気盛んで、肌肉滑らかに、気道通じ、栄衛の行、常を失わず、故に昼日に精しくして夜目覚めず、老人は血気衰え、気肉滑らかならず、栄衛の道しぶる。故に昼日は精しきこと能わず、夜は寝むるを得ざるなり。故に老人は寝むるを得ざるを知るなり。

 

四十七難

四十七の難に曰く、人の面ひとりよく寒に耐えるは何ぞや。

然り。人の頭は諸陽の会なり。諸陰の脈はみな頸、胸中に至りて還る。ひとり諸陽の脈は、みな上りて頭に至るのみ、故に面をして寒に耐えしむるなり。

 

四十八難

四十八の難に曰く、人に三虚三実ありとは何のいうぞや。

然り。脈の虚実あり、病の虚実あり、診の虚実あるなり。脈の虚実は、濡なるものを虚とし、緊牢なるものを実となす。

病の虚実は、出ずるものを虚となし、入るものを実となす。言うものを虚となし、言わざるものを実となす。緩なるものを虚となし、急なるものを実となす。診の虚実は、濡なるものを虚とし、牢なるものを実となす。痒きものを虚となし、痛むものを実となす。外痛内快は外実内虚となす。内痛外快は内実外虚となす。故に虚実というなり。

 

四十九難

四十九の難に曰く、正経自ら病むことあり、五邪に傷やれるところあり、何を以てこれを別つや。

然り。経に言う憂愁思慮すれば則ち心を傷る。形寒飲冷すれば則ち肺を傷る。恚怒の気、逆上して下らざれば則ち肝を傷る。飲食労倦すれば則ち脾を傷る。久しく湿地に坐し、強力して水に入れば則ち腎を傷る。これを正経の自病なり。

何を五邪と言う。

然り。中風あり、傷暑あり、飲食労倦あり、傷寒あり、中湿あり、これを五邪と言う。たとえば心病は、何を以て中風よりこれを得たるかを知る。

然り。その色まさに赤かるべし。

何を以てこれを言う。肝は色を主る。自ら入りては青をなし、心に入りては赤をなし、脾に入りて黃をなし、肺に入りて白をなし、腎に入りては黒をなす。肝、心邪となる。故にまさに赤色になると知るなり。その病、身熱し、脇下満痛す。その脈は浮大にして弦。

何を以て傷暑よりそれを得たるか知る。

然り。まさに臭いを悪むべし。

何を以てこれをいう。心は臭を主る。自ら入りて焦臭をなし、脾に入りては香臭をなし、肝に入りては臊臭をなし、腎に入りては腐臭をなし、肺に入りては腥臭をなす。故に心病は傷暑を得てこれを知るなり。まさに臭いを悪むべし。その病、身熱して煩し、心痛する。その脈浮大にして散。

何を以て飲食労倦よりこれを得たるかを知る。

然り。まさに苦味を喜ぶなり。虚すれば食を欲せず、実すれば食を欲するとなす。

何を以てこれを言う。脾は味を主る。肝に入りては酸をなし、心に入りては苦をなし、肺に入りては辛をなし、腎に入りては鹹をなし、自ら入りては甘となす。故に脾邪、心に入りて苦味を喜びとなし知るなり。その病、身熱して体重く、嗜臥し、四肢収まらず。その脈浮大にして緩。何を以て傷寒よりこれを得たるかを知る。

然ろ。まさに譫言、妄語すべし。

何を以てこれを言う。

肺は声を主る。肝に入りては呼をなし、心に入りては言をなし、脾に入りては歌をなし、腎に入りては呻をなし、自ら入りては哭をなす。故に肺邪、心に入りて譫言、妄語をなすを知るなり。その病、身熱し、洒洒(さいさい又はしゃしゃと読み。ぞくぞくするの意)と惡寒し、甚だしきは則ち喘欬す。その脈浮大にして渋。

何を以て中湿よりこれを得たるかを知る。

然り。まさにしばしば汗出て止むべからざるべし。

何を以てこれを言う。

腎は液を主る。肝に入りては泣をなし、心に入りては汗をなし、脾に入りては涎をなし、肺に入りては涕をなし、自ら入りては唾をなす。故に腎邪、心に入り、汗出でて止まざるをなすを知るなり。その病、身熱して小腹痛み、足脛寒えて逆す。その脈、沈濡にして大。これ五邪の法なり。

 

五十難

五十の難に曰く、病に虚邪あり、実邪あり、賊邪あり、微邪あり、正邪あり。何を以てこれを別たん。

然り。後より来るものを虚邪となし、前より来るものを実邪となし、勝たざるところより来るものを賊邪となし、勝つところより来るものを微邪となし、自ら病むものを正邪となす。

何を以てこれを言う。たとえば心病、中風よりこれを得るは虚邪となし、傷暑よりこれを得るは正邪となし、飮食勞倦よりこれを得るは実邪となし、傷寒よりこれを得るは微邪となし、中湿よりこれを得るは賊邪となす。

 

五十一難

五十一の難に曰く、病に温を得んと欲する者あり、寒を得んと欲す者あり、人を見るを得んと欲す者あり、人を見るを得んと欲さざる者あり。しかしおのおの同じからず、病いずれの臓腑にありや。

然り。病みて寒を得んと欲して人を見るを欲する者は、病、腑にあるなり。病みて温を得んと欲して人を見るを得んと欲せざる者は、病、臓にあるなり。

何を以てこれを言う。

腑は陽なり。陽病は寒を得んとを欲し、また人を見るを欲す。臓は陰なり。陰病は温を得んとを欲し、また戸を閉じてひとり処ることを欲し、人の声を聞くを悪む。故に以て臓腑の病を別ち知るなり。

 

五十二難

五十二の難に曰く、腑臓の病を発す、根本等しきやいなや。

然り。等しからざるなり。

その等しからざりとは何ぞや。

然り。臓病は止まりて移らず。その病その処を離れず。腑病は彷彿賁嚮(彷徨うよう動いたり、突然走りまわったり一定しない様)し、上下行流し、居処常に無し。故にこれを以て臓腑の根本が同じざることを知るなり。

 

五十三難

五十三の難に曰く、経に言う。七伝の者は死し、間臓の者は生くとは何を言うなり。

然り。七伝はその勝つ所に伝うなり。間臓はその子に伝うなり。

何を以てこれを言う。

たとえば心病が肺に伝え、肺が肝に伝え、肝が脾に伝え、脾が腎に伝え、腎が心に伝う。一臓再び傷れず。故に七伝の者は死すと言うなり。

間臓はその所に伝え生くなり。たとえば心病が脾に伝え、脾が肺に伝え、肺が腎に伝え、腎が肝に伝え、肝が心に伝える。これ母子に相い伝え竟(おわり)てまた始まる。環の端無きが如し。故に生くと言うなり。

 

五十四難

五十四の難に曰く、臓病は治し難し。腑病は治し易し。何を言うなり。

然り。臓病の治し難きゆえんは、その勝つ所に伝うなり。腑病の治し易きはその子に伝うなり。七伝間臓と同じ法おこるなり。

 

五十五難

五十五の難に曰く、病に積あり、聚あり。何を以てこれを別たん。

然り。積は陰気なり。聚は陽気なり。故に陰は沈み伏せる。陽は浮かびて動。気の積む所、名曰く積。気の聚まる所、名曰く聚。故に積は五蔵の生ずる所。聚は六腑の成る所なり。聚は陰気なり。その始めて発するところ常にあり。その病のその部を離れず、上下に終始する所あり、左右に窮處する所あり。聚は陽気なり。その始めて発するや根本なし。上下留止する所なし、その痛み常処なし、これを聚という。故にこれを以て積聚を別ち知るなり。