著者 紹介

大熊 裕哉

新潟県新潟市

おおくま鍼灸マッサージ治療院

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難経   一難~十五難

一難

 一難に曰く、十二経に皆動脈あるに、独り寸口を取りて以て五臓六腑の死生吉凶を決する法とは、何の謂いぞや。然り、寸口は脈の太会にして、手の太陰の脈動なり。人は一呼に脈のすすむこと三寸、一吸に脈の進むこと三寸なれば、呼吸定息に脈は六寸をすすむ。人は一日一夜に凡て一万三千五百息刺、脈のすすむこと五十度にして身をめぐる。漏水下ること百刻に、栄衛は陽をすすむこと二十五度、陰をすすむことも亦二十五度にて一周を為す也。故に五十度にしてまた手の太陰に会す。寸口は五臓六腑の終始するところなるが故に、法は寸口に取る也。

 

二難

二難に曰く、脈に尺寸あり、とは何の謂ぞや。

然り、尺寸は脈の大要会なり。関より尺に至るは是れ尺の内にして陰の治まる所なり。関より魚際に至るは是れ寸口の内にして陽の治まる所なり。故に分寸を尺と為し、分寸を尺と為す。故に陰は尺内に一寸を得、陽は寸内に九分を得るなり。尺寸の終始は一寸九分、故に尺寸というなり。

 

三難

 三難に曰く、脈に大過あり、不及あり、陰陽が相い乗ずることあり、覆あり・溢あり、関あり、格あり、とは何ぞや。

然り、関の前は陽の動なり、脈は当に九分に見れて浮きなるべし。過ぎたる者は法に大過といい、減ずる者は法に不及という。遂んで魚に上がるを溢となし、外関内格となす。此れは陰の乗ずる脈なり。関以後は陰の動なり、脈は当に一寸に見れて沈なるべし。過ぎたる者は法に大過といい、減ずる者は法に不及という。

 

四難

 四難に曰く、脈に陰陽の法あり、とは何の謂ぞや。

然り、呼は心と肺に出で、吸は腎と肝に入る。呼吸の間に脾は穀味を受くれば、其の脈は中に有り。浮は陽なり。沈は陰なり。故に陰陽というなり。心・肺は倶に浮なるも、何を似て之を別つや。

然り、浮にして大散なるは心なり、浮にして短 なるは肺なり。

腎・肝は倶に沈なるも、何を以て之を別つや。

然り、牢にして長なるは肝なり、之を按じて濡にして、指を挙げて来ること実なるは腎なり。脾は中州なるが故に其の脈は中に在り。是れ陰陽の法なり。

脈に一陰一陽・一陰二陽・一陰三陽あり、一陽一陰・一陽二陰・一陽三陰あり。此の如きの言うことは、寸口の六脈が倶に動ずることあるなるや。然り、此れの言うことは、六脈の倶に動ずること有るに在らざるなり。

謂うところは浮・沈・ 長短・滑・濇のことなり。

浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、濇は陰なり。所謂、 一陰一陽は、脈の来ること沈にして滑なるを謂うなり。一陰一陽は脈の来ること沈・滑にして 長なるを謂うなり。

一陰三陽は脈の来ること浮・滑にして長、時に一沈するを謂うなり。所謂一陽一陰は脈の来ること浮にして濇なるをいうなり。

一陽二陰は脈の来ること長にして 沈濇なりを謂うなり。

一陽三陰は脈の来ること沈濇にして短、時に一浮するを謂うなり。

各々其の経の所在を以て、病の逆順を名づくるなり。

 

五難

 五難に曰く、脈に軽重あり、とは何の謂ぞや。

然り、初めに脈を持するに三菽の重さの如くして、皮毛と相い得る者は肺の部なり。

 六菽の重さの如くして血脈と相い得る者は心の部なり。

九菽の重さの如くして肌肉と相い得る者は脾の部なり。

十二菽の重さの如くして筋と平らなる者は肝の部なり。

之を按じて骨に至り、指を挙げて来ることは疾き者は腎の部なり。

故に軽重と言うなり。

 

六難

 六難に曰く、脈に陰盛陽虚・陽盛陰虚あり、とは何の謂いぞや。

然り、之を浮ぶるに損小、之を沈むるに実大なるが故に、陰盛陽虚という。之を沈むるに損小之を浮かぶるに実大なるが故に陽盛陰虚という。

是れ陰陽虚実の意なり。

 

七難

 七難に曰く、経に言う「少陽の至るや、乍ち大・乍ち短・乍ち長なり。陽明の至るや浮大して短なり。太陽の至るや洪大にして長なり。太陰の至るやひ繁大にして長なり。少陰の至るや繁細にして微なり。厥陰の至るや沈にして敦なり。」と。此の六つは是れ平脈なりや、はたまた病脈なりや。

然り、皆な王脈なり。其の気は何れの月を似て、各々王すること幾日ぞ。

然り、冬至の後、甲子を得て少陽王す。復た甲子を得て陽明王す。復た甲子を得て太陽王す。復た甲子を得て太陰王す。復た甲子を得て少陰王す。復た甲子を得て厭陰王す。

王することを各々六十日なれば、六六・三百六十日にして、以って一歳と成る。此れ三陰三陽の旺する時日の大要なり。

 

八難

 八難に曰く、寸口の脈が平にして氏する、とは何の謂ぞや。

然り、諸の十二経脈は皆な生気の原に係る、所謂、

生気の原は十二経の根本を謂うなり。

腎間の動気を謂うなり。此れは五臓六腑の本・十二経の根・呼吸の門・三焦の原なり。一名に守邪の神なり。故に気は人の根本なり。根絶ゆるときは、茎葉は枯るるべし。寸口の脈が平にして死するとは、生気が独り内に絶ゆればなり。

 

九難

 九難に曰く、何を以って臓腑の病を別ち知るや。

然り、数なるは腑なり、遅なるは蔵なり、数なるときは熱となし、遅なるときは寒となす。諸陽は熱たり、諸陰は寒たり。故に似て臓腑の病を別ち知るなり。

 

十難

 十難に曰く、一脈十変となるのは何のいいぞや。

然り。五邪剛柔相逢うの意なり。

たとえば心脈が緩なること甚だしきは、脾の邪が心を干せるなり。心脈が微に緩なるは胃の邪が小腸を干せるなり。

心脈が渋なること甚だしきは、肺の邪が心を干せるなり。心脈が微に濇なるは大腸の邪が小腸を干せるなり。

心脈が沈なること甚だしきは、腎の邪が心を干せるなり。心脈が微に沈なるは膀胱の邪が小腸を干せるなり。

五臓には各々剛柔の邪有り。故に一脈をしてたちまち変じて十と為さしむなり。

 

十一難

 十一難に曰く、経に言う、脈が五十動に満たずして一止するは、一臓に気無しとは、何れの臓なるや。

然り、人の吸うときは陰に随って入り、呼くときは陽に因りて出ずるものなり。今、吸いて腎に至る能わず、肝に至りて還る。

故に一臓に気無きは、腎の気が先ず尽きたるを知るなり。

 

十二難

 十ニ難に曰く、経に言う、「五臓の脈が己に内に絶えたるに、鍼を用うる者が反して其の外を実し、五臓の脈が己に外に絶えたるに、鍼を用うる者が反して其の内を実す」と。内外の絶ゆるは、何を以って之を別つや。

然り、五臓の脈が己に内に絶ゆとは、腎肝の気が己に内に絶えたることなり。

しかるに医は反って其の心肺を補う。五臓の脈が己に外に絶すとは、心肺の脈が外に絶えたることなり。而るに医の反って其の腎肝を補うは、陽が絶えたるに陰を補い、陰が絶えたるに陽を補うことなり。

是れを実を実し虚を虚し、不足を損じ有余を益すと謂う。この如きは医が之を殺すのみ。

 

十三難

十三難に曰く、経に言う「其の色が見わるるに、其の脈を得ず、反って相勝の脈を得る者は即ち死し、相生の脈を得る者は病は即ち自から已ゆ。色と脈とは当に参えて相い応ずべし。」と。之を為すこと如何に。

然り、五臓に五色ありて皆な面に見わるるも、亦た当に寸口・尺内と相い応ずべし。

たとえば、色が青きは其の脈は当に弦にして急なるべく、色が赤きは其の脈は当に浮大にして散なるべく、色が黄なるは其の脈は中緩にして大に、色が白きは其の脈は浮にして短に、色が黒きは其の脈は枕濡にして滑なり。此を五色と脈とは当に参えて相い応ずべしと

謂うなり。

脈が数なるは尺の皮膚も亦数に、脈が急なるは尺の皮膚も亦急に、脈が緩なるは尺の皮膚も亦緩に、脈がなるは尺の皮膚も亦?に、脈の滑なるは尺の皮膚も亦滑なり。五臓に各々声・色・臭・味ありて当に寸口尺内と相い応ずべく、其の応ぜざる者は病なり。

 例えば、色が青きとき、其の脈が浮にして短なるか、若しくは大にして緩なるを相勝となし、浮大にして散なるか、若しくは小にして滑なるを相生となすなり。経に言う「一を知るを下工となし、二を知るを中工となし、三を知るを上工となす。上工は十に九を全うし、中工は十に八を全うし、下工は十に六を全うす。」とは、此れこの謂なり。

 

十四難

 十四難に曰く、脈に損至ありとは、何の謂ぞや。

然り、至の脈は、一呼に再至を平といい、三至を離経といい、四至を奪精といい、五至を死といい、六至を絶命という。此れが至の脈なり。何をか損という。

一呼に一至を離経といい、ニ呼に一至奪精といい、三呼に一至を死といい、四呼に一至を絶命という。此れが損の脈り。至脈は下より上り、損脈は上より下る。損脈の病を為すこといかに。

然り、一損すれば皮毛を損じ、皮は聚りては毛は落つ。ニ損すれば血脈を損じ、血脈は虚少にして、五臓六腑を栄する事能わざるなり。三損すれば肌肉を損じ、肌肉は消痩して飲食は肌膚となること能わず。四損すれば筋を損じ、筋は緩みて自ら収持すること能わず。五損すれば、骨を損じ、骨は萎えて床に起つこと能わず。此れに反するは収病に至るなり。上より下る者にして、骨が萎えて床に起つこと能わざる者は死し、下より上る者にして皮が聚りて毛が落つる者は死す。損を治するの法は如何に。

然り、其の肺を損ずる者は其の気を益し、其の心を損ずる者は其の栄衛を調え、其の脾を損する者は其の飲食を調え、其の寒温をほどよくし、其の肝を損ずる者は其の中を緩やかにし、其の腎を損ずる者は其の精を益す。此れ損を治するの法なり。

脈に、一呼再至・一吸再至あり、一呼三至・一吸三至あり、一呼四至・一吸四至あり、一呼五至・一吸五至あり、一呼六至・一吸六至あり、一呼一至・一吸一至あり、再呼一至、再吸一至あり、呼吸再至あり。脈の来たること此の如きは、何を以て其の病を別ち知るや。

然り、脈の来ること一呼再至・一吸再至にして、大ならず小なるときは即ち頭痛み目眩し、前が小に後が大になるときは即ち胸満し短気なり。

一呼四至・一吸四至なるは病は甚だしからんをを欲し、脈の洪大なる者は煩満を苦しみ、沈細なる者は腹中痛み、滑数なるは熱に傷られ、満なるは霧露に中れるなり。一呼五至・一吸五至なるは其の人は当に困すべく、沈細なるは夜に加わり、浮大なるは昼に加わる、大ならず小ならざるは困すといえども治すべく、大小の有る者は治し難しとなす。一呼六至・一吸六至なるは死脈なり、沈細なるは夜に死し、浮大なるは昼に死す。一呼一至・一吸一至を名づけて損といい、人は能く行くといえどもなお当に床に着くべし、然る所以の者は、血気が皆な不足せるが故なり。再呼一至・再吸一至・呼吸再至を名づけて無魂をいう。無魂なる者は当に死すべく、人は能く行くといえども名づけて行屍という。上部に脈あり、下部に脈無きは其の人は吐すべく、吐せざる者は死す。上部に脈なく、下部に脈あるは、困すといえども能く害をなすこと無し。

然る所以の者は、譬えば、人に尺が有るはなを樹に根があるがごとく、枝葉が将に枯んとするも、根本は将に自ずから生くべし。

脈に根本があるは、人に原気あることなり。故に死せざることを知るなり。

 

十五難

 十五難に曰く、経に言う「春の脈は弦・夏の脈は鈎・秋の脈は毛・冬の脈は石なり。」と。

是れは王脈なりや、将また病脈なりや。

然り、弦・鈎・毛・石は四時の脈なり。春の脈の弦なるは、肝は東方の木なれば、万物は生じ始むるも、未だ枝葉有らず。故に其の脈の来ること濡弱にして長し。故に弦という。

夏の脈の鈎なるは、心は南方の火なれば、万物の茂る所、枝を垂れ葉を布げ、皆な下に曲りて鈎の如し。故に其の脈の来ることは疾く、去ることは遅し。故に鈎という。

秋の脈の毛なるは、肺は西方の金なれば、万物の終る所、草木華葉は皆な秋にして落ち、其の枝のみ独り在りて、毫毛の如し。故に其の脈の来ること軽虚にして以て浮なり。故に毛という。

冬の脈の石なるは、腎は北方の水なれば、万物の蔵する所、盛冬の時は水は凝りて石の如し。故に其の脈の来ること沈濡にして滑なり。故に石という。此れは四時の脈なり。

変あるが如きときはいかに。

然り、春の脈は弦なれば、反する者は病と為す。何をか反すると謂うや。

然り、其の気の来ること実強なるを是れ太過といい、病は外に在り。其の気の来ること虚微なるを是れ不及といい、病は内に在り。気の来ること厭々聶々として楡の葉を循るが如きを平といい益々実にして滑なること長竿を循るが如きを病という。急にして勁く益々強きこと新張の弓の弦の如きを死という。

春の脈は微弦なるを平といい、弦のみ多く胃の気の少なきを病といい、但だ弦にして胃の気の無きを死という。春は胃の気を以て本となす。夏の脈は鈎なれば、反する者は病と為す。何をか反すと謂うや。

然り、其の気の来ること実強なるを、是れ太過といい、病は外に在り。其の気の来ること虚微なるを是れ不及といい、病は内に在り。其の脈の来ること累々として環の如く、琅杆を循るが如きを平といい、来ること益々数にして鶴の足を挙ぐるが如きを病といい、前は曲り後は居すること帯鈎を操るが如きを死という。

夏の脈は微鈎なるを平といい、鈎のみ多く胃の気の少なきを病といい、但だ鈎にして胃の気の無きを死という。夏は胃の気を以て本と為す。

秋の脈は毛なれば、反する者は病と為す。

何をか反すと謂うや。

然り、其の気の来ること実強なるを、是れ太過といい、病は外に在り。気の来ること虚微なるを、是れ不及といい、病は内に在り。其の脈の来ること藹々として車蓋の如くにして、之を按じて益々大なるを平といい、上らず下らずして鶏羽を循るが如きを病といい、之を按じ粛索として風が毛を吹くが如きを死という。秋の脈は微毛なるを平といい、毛のみ多く胃気の少なきを病といい、但だ毛にして胃の気の無きを死という。秋は胃の気を以て本と為す。

冬の脈は石なれば、反する者は病と為す。     

何をか反すと謂うや。

然り、その気の来ること実強なるを是れ太過といい、病は外に在り。気の来ること虚微なるを、是れ不及といい、病は内に在り。脈の来ること上は大に下は兌にして、濡滑なること雀の啄の如きを平といい、啄々と連属して其の中が微に曲るを病といい、来ること解索の去るが如く弾石の如きを死という。

冬の脈は微石なるを平といい、石のみ多くの胃の気の少なきを病という。但だ石にして胃の気の無きを死という。冬は胃の気を以て本と為す。胃は水穀の海にして、四時に稟くることを主り、皆な胃の気を以て本と為す。是を四時の変と謂い、病・死・生の要会なり。

脾は中州なり。其の平和は得て見わるを得べからずして、衰えてすなわち見わるるのみ。来ること雀の啄むが如く、水の下漏するが如きは、是れ脾が衰えて見わるるものなり。